Cemetery

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家から程近いところに広い墓地がある。その傍らを通り抜けることはあっても、墓地の中を歩いたことは数えるほどしかなかった。おとなになっても墓地はどちらかといえば避けたい場所だった。両手の親指を他の指でくるんでぎゅっとこぶしをにぎりながら、夜に墓地の横を通り抜けることもあった。こどもの頃、墓地のそばを通るときには親指を隠して息をとめておかないと魂を乗っとられてしまうという話がクラスで広まっていて、裏門を出て帰る誰もが息をとめ、親指を隠して走っていたのだった。
外に出ると音が澄んで響きわたるように晴れていた。道すがらふと墓地を歩いてみようという気になった。連休明けの土曜日、墓地には誰もいない。ときどき犬の散歩をする老人が通りかかっては去ってゆく。色あせた卒塔婆のへりに光が白く飛び、鳥がざわめいている。凡庸な表現だがどこか楽園のようだと思った。ただ草と花と石があった。コンクリートの裂け目から葉を広げて咲く花もあれば、墓石の前に供えられ、すでに枯れて朽ちている花もあった。むかし、なぜ花をもらうと嬉しいのだろうと訊かれたとき、誰かに花を贈るときにはかならず、花を贈るその相手のことを想うからだとわたしは答えた。花束は事前につくっておくことができないから、贈るそのときに手に入れなくてはならない。そしてそのときにはかならずそのひとのことを想うからだと。
ゆっくり歩いていくと墓石の前に枯れた花が棄てられていた。茎が乾き花びらが爛れ強い夕方の光に貫かれた花は、真剣な想いで書かれ、相手に届けられたあとに遺された、物質としての手紙のようだとふと思った。忘れられようと棄てられようと朽ちはてようと、これでいいのだという気がした。そして機能を果たしアスファルトの上に横たえられていてもなお、物質としての存在がとても強いという気がした。なんだかこわくなくなってしまった。魂なんて乗っとられてしまってもいいなと思った。