もっとも幸福なのは生まれないこと,少なくとも人間として生まれないことだ。疲れてしまった。疲れたという感覚それ自体というよりは,この感覚の反復にもう疲れてしまった。
老いた愛を弔いにいく真夏の湿度に濡れていく なまぬるい血がこそばゆい汗よりも重く涙よりも鈍い海よりもあたたかく雨よりもなじむ 鋭さが痛みと近いのならば言語とも近いのだろうしかし饒舌の豊かさではなくただ湿度があるだけなのだ怠惰に無言を蕩尽して…
「撮れてしまったもの」に強く惹かれている。突風が吹く中ファインダーをのぞき、よいと思った瞬間に運動神経で数度シャッターを切った。撮れたものをみてみると、たしかに構図自体は意図したものに近いが、多くの部分は裏切られている。とうてい自分が撮っ…
ざわざわと喧しい静寂の その音の粒を解像しようとしたとき肌の下ではるか昔の指の記憶がよみがえってきたので灰色の光とともに揺れる雨露を覗きこみただ風が吹かないことを祈るかつてと書くわたしが現在に生きるためにただしく眠らなくてはならない細い糸を…
海沿いだったはずの街は土砂の山に囲まれて、まったく海のみえない更地になっていた。土砂に囲まれた土地にぽつぽつと残された建物は時間から暴力的に切り離されているようにみえた。大型のトラックやブルドーザーの列を横目に、海のまったくみえない道を走…
「わたし(わたしたち)は何かを収奪されている、あるいは収奪されてしまった、だから権利として失われたものを取り返し、関係を是正しなければならない」という態度について、ずっと考えつづけてきた。生きづらさに直面する人たちはこの理路を一度はたどる…
勤務先のフロアの行きどまりにある背の高い細長い窓は暗く一度も降ろされたことのないロールスクリーンがついていてロールスクリーンを降ろすためだけについている長い長い紐は天井から吊るされ通気口からの風でいつも大きく揺れている わたしの影がガラスに…
アイスコーヒーをそそいだグラスのなかに黒い小さい虫がとびこんできてそのままインクの染みのようにくたっと浮いて縁にゆらゆらと流れ着いていくコーヒーのうえにできた溶けた氷の透明な層の静けさをみながらわたしはただグラスをながめていた時間の長さを…
均質な光のもとには影がないのでなにも立ち上がらない白くすみずみまでのっぺりと冴えわたってとても清潔だ青ざめた紙の上でわたしたちは愛し合うそこに謎はないぎりぎり光を強めてじりじり目をこらして明日のための紙のしみをみつけなければことばがうしな…
翌朝のための牛乳や卵が切れていたので、夜の公園を抜けて買い物に出かけた。階段をのぼった先のゆるやかなスロープの脇の闇のなかに、遠くの街灯に照らされたあじさいが暗く浮かんでいた。枯れている部分とそうでない部分がまざったあじさいの丸みに片手で…