Memory of Hydrangea

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 翌朝のための牛乳や卵が切れていたので、夜の公園を抜けて買い物に出かけた。階段をのぼった先のゆるやかなスロープの脇の闇のなかに、遠くの街灯に照らされたあじさいが暗く浮かんでいた。枯れている部分とそうでない部分がまざったあじさいの丸みに片手で触れてみて、それからそっと両手で包んでみた。人の頭を胸元で抱きとめているときの感覚だと思った。あじさいはむずかしい花だとずっと思っていたけれど、人間の頭だと思ったことはいままでなかった。
 くしゃくしゃと指を動かし花弁の内側に手をつっこみながら、早くここを立ち去ろうと思った。なまぬるい初夏の闇から思考の中に潜っていくのはとてもたやすい。こどもの頃、風邪をひいて学校を休んだ友達のところに連絡帳を届けにいったときのことを思い出した。友達の家に行く道すがら団地の空き地に入ってみると、かつて植え込みだったらしい部分に野生のあじさいが咲いていた。風かなにかで折れかかっていた小さなあじさいを手折り、友達へのおみやげにして渡した。じっとりとぬれた芝や折れた枝の匂いがしていた。
 雨にぬれたあじさいはとてもきれいだったので、自宅に一朶持って帰った。霧のような雨の降るなか友達の家からの道のりは遠かったけれど、これを母にあげたらきっと喜ぶだろうと少しわくわくした気分だったのだ。しかし家に帰ると母は縁起が悪いから捨ててくるようにと言い、友達にあじさいを渡したことを話すと、病人にあじさいをあげるなどという非常識なことをなぜしたのかと烈火のごとく怒った。怒られてかなしかったかどうか覚えていないが、おとなになってから思い出したときに柔らかい雨の気配とともにかなしいと思った。そのときから十分におとなになるまでのあいだ、あじさいはわたしの世界から姿を消していた。意識的にみることもなく、目に入ってくることもなかった。
 数年前の母の日に鉢植えのあじさいを贈った。もちろん当てつけではなく、その場にあった花のなかでもっとも詩的だったから贈ったのだ。変わり種のあじさいはとても可憐で、重たさも陰鬱さもなく、母はとても喜んでくれた。母は昔のエピソードなど覚えていないようだし、彼女の明るさと無邪気さと強靭さという美点はなんでもすぐに忘れるという性質からきている。あじさいのことをひとことで語るのはむずかしい。うつくしいけれどむずかしい花、表情があってどこか残酷な花。光のもとにあるときと雨のもとにあるときで表情がまるで変わる花。避けたくなるような不吉な雰囲気をときどきまとう花。枯れると打ち捨てられた舟のように取り残される花。湿度の高い暗闇のなかで胸元に抱えこんだ人から安心しきった寝息がきこえてくるときの、やさしい気持ちと少しさみしい気持ちが入りまじった気分のことを思った。その感触とともに、時間の流れによる変化や救いのことを考えた。色褪せることなく立ちのぼってくる感情と、それを理解するために費やされる瞑想的な時間の静けさについて思った。髪や肌ややわらかい骨の感覚が幻想的な色合いになってぬるい雨のなかに溶けこみ、にじんだ風景のなかに柔らかい雨が降りはじめる。すべての出来事が時間から自由になって同じ距離にたたずみはじめ、自らの物語を語りだす機会をつややかな目つきでうかがっている。色とりどりの細い糸のようなたくさんの物語があじさいのまわりにふわりとからまっていく、その光景をただじっとしながら目撃する者をわたしと名付けるべきなのだろう。手脚の長い寡黙な空気がわたしにしっとりと寄り添い、わたしではない誰かの頭をしなやかに包んでいるようで、なかなか離れてくれない。