明るい復讐についての覚え書き


「わたし(わたしたち)は何かを収奪されている、あるいは収奪されてしまった、だから権利として失われたものを取り返し、関係を是正しなければならない」という態度について、ずっと考えつづけてきた。生きづらさに直面する人たちはこの理路を一度はたどるのではないかと想像するし、自分自身もたどったけれど、ここ数年で言語化できるようになったのはもう少し違うことだ。
わたしは「誰か(仮想敵のようなもの)に権利を収奪された」と考えて怒りや悲しみによって自分を駆動させていくよりは「なぜかある日から(あるいはあらかじめ)自分の手元にないものがある」と捉えるほうが健康的で個人的には好みだなあといまは思っている。限られた自分の持ち物の中から愉しいことをみつけるか、ないならつくって愉しむか、愉しめないにしてもなんとか生きていくことのささやかさとしたたかさのことを思う。ほうれん草が手に入らないときにより安価な小松菜を手に入れてみたら、塩を入れて下ゆでする必要もないし美味しくてむしろラッキー、というようなことはざらにある。一緒に和える野菜や味付けを変えてみたらレパートリーが増えてラッキーというようなこともざらにある。ほうれん草がこれから先10年手に入らない、けれどどうしても食べたくて仕方ないとしたら、ほうれん草を闇市で仕入れてくるお隣さんを糾弾するよりは畑に植えてしまったほうが早いし、苗がありそうな地域の人とお酒を飲みにいったほうが早いかもしれない。いずれにしてもほうれん草にこだわるよりは美味しい食事が食べられればいいし、どうしてもほうれん草が欲しくて仕方がない場合には、なんとか機嫌のよい自分を保って調達しようと思う。
敵を設定するには現代は複雑で多様性に満ちている。わたしは文学を愛するのと同じような愛し方でその複雑さを愛していると思う。もしその中に対立せざるを得ないものたちを見出したとき、それらすべてに気を配り、留保をつけ、細かく分類して矛先を純化していったとしたら、それは錐のようなもので急所を突くスタイルになるだろう。その精神のありかたを否定したいわけではなく、あくまで好みの問題として、既存の構造をひっくり返すのに構造の矛盾を指摘するやり方よりは、新しいものをさっさと(せっせと)つくってしまう明るさのほうに惹かれる。なにかとんでもなくよいものやすばらしいものに圧倒されていたい。話の通じない相手に「話をきけ、こちらが正しい、言うことを聞け」というよりは「まあたぶんこっちのほうが愉しいけどね」と勝手に愉しんでいるほうがいい。愉しくない人たちは愉しい人たちの得体の知れなさが怖いと思うし、その恐怖の裏返しとして嫉妬されたり不条理なことを言われたりするかもしれないけれど、こちらの思考に強度があればつぶれないと思う。それでいいと思う。必要なのは愉しいことを共有する仲間と、考えつづける体力を持ちつづけることだと思う。強くしなやかでいつづけなくてはならない。
この一連の思考の端緒は復讐の方法を考えるところにあった。ずいぶん穏やかな岸辺へと流されてきたようだ。