ここ最近、自分が大きく変化した気がした。自分が突然変わったことを実感することはほとんどないので驚いている。成熟といえるかもしれない。なにか水準ががたっと変わった感触だ。

端的にいえば、自分にまるで関心がなくなった。関心がないことに関心を持って、これでいいのかと思い悩むこともなくなった。他者関係も同じで、魅力的な人物だと思われたいという欲望もないし、人を誘惑したいともまったく思わない。これは自意識の問題なので、魅力的だと思ってもらえたらありがたいけれど、そう思われなくてもなんの失望もないどころかまあそんなものだろう。わたしは文字や写真などの一過性のコンテンツの送り手かもしれないし、論文の書き手かもしれないし、女かもしれない。いずれにしても適当に愉しんで消費してくれればいいと思うし、消費されたくない場合にはいやだと告げるまでだ(何を望まないかを告げるのは大事なことだ)。自分自身の信条として善く在りたいし真剣でありたいとは思うけれど、それは善い人物だと思われたいということとはまったく別の話だ。重荷がどさっと下りたような気分だ。いまからホームセンターで縄を調達して首でも吊ろうかというような晴れやかな気分だ。そういえば特に生きていたくもないし、生きていなくてはいけないわけでもないことに気付いたのだ。いままで面倒だとかそこまでする気力がないとか思っていたけれど、実際には「特に生きていたくもない」という素朴な気持ちは首を吊る動機として十分だ。自由だと思った。

ひとはひとりだ。自分のために生きることはできないし、かといって人のために生きることにも限界があって、それをはっきりと認識するのはつらい。そのつらさから逃れるために、ひとは自分が存在しつづける理由を人に帰したり、物事に帰したりして、なんとか生きていく。そうでもしなければ、存在する理由の不在という虚無に向き合うことになってしまうからだ。でもひとはひとりだ。ふと、つらいときに助けてくれるひとや寄り添ってくれるひとがいたら、と望むことをやめてしまった。自らを解剖して破壊していくような知性、そして知性とはつねにそういう残酷な側面をもつが、破壊したあとの片付けは自分ひとりでするべきだと思ったのだ。それにあたって必要なのは体力だけなのだから。そのときに、死体から内蔵をえぐりだし、ああでもないこうでもないと来るべき別の死体についての議論をするよりは、死体をただ感じているほうがましだといまは思うので、わたしは沈黙を選ぶだろう。じわじわと時間をかけながら、わたしは自分のためにすら生きないのだ、と知った。わたしたちはみな小さい島のようにひとりで、最終的には誰のことも救えなければ誰かに救われることもない。意志ははっきりと存在するが、それは作用とは別のものだ。わたしが友人たちを見守り、幸せであってほしいと強く祈るのは、ただわたしがそうしたいと思っているからしているだけの勝手な行動だ。わたしは真剣に祈るけれど、だからといって救われる義理もない。同じ論理で、自分に自分は救えるとはかぎらないし、救う義理もないと思う。これはとても自由で、本当に自由なことなどめったにないのだから、とても幸福なことだ。存在は耐えられないほど軽い。かなしみや嘆きにすら値しない、耐えがたいほどの軽さを、引き受けなくてはならない。