蚕の死骸とただしい眠り
ざわざわと喧しい静寂の その音の粒を解像しようとしたとき
肌の下ではるか昔の指の記憶がよみがえってきたので
灰色の光とともに揺れる雨露を覗きこみただ風が吹かないことを祈る
かつてと書くわたしが現在に生きるためにただしく眠らなくてはならない
細い糸を撚り薄く透ける布を織って顔に何層も巻きつけるとき
長い髪が巻きこまれともに織られてしまって解くことができない
片手に乾いた花をにぎり粉々にする 片脚をのばし日影の土の湿度を知る
わたしが遍在していると信じさせてほしい
地下鉄の中で血の気の失せた肌をしながら吊り革をつかむ女の乳房には
青い蛇が幾匹も這っている 彼女の恋人は明かりを消して愛しあう
不在なのか消滅なのか増殖なのか見当もつかないことを
帰路で明日の朝食を買ううちに忘れつづける日々を生きる
自ら糸を吐く蚕は繭ごと熱湯に投げこまれてしまう
忘却と防御で静かにたたかおうとしても身を守ることができない
目が醒める前に息絶えた理由を繭で鏡がみえなかったからだといっても
繭のみえないひとはそれを隠喩と取るだろう
可視化された歴史か地層の言語を夢見ているが
物語がたやすいときそれはもうわたしの物語ではない
だれかの物語の中で語りを放棄して われわれは眠らなくてはならない
肌の下ではるか昔の指の記憶がよみがえってきたので
灰色の光とともに揺れる雨露を覗きこみただ風が吹かないことを祈る
かつてと書くわたしが現在に生きるためにただしく眠らなくてはならない
細い糸を撚り薄く透ける布を織って顔に何層も巻きつけるとき
長い髪が巻きこまれともに織られてしまって解くことができない
片手に乾いた花をにぎり粉々にする 片脚をのばし日影の土の湿度を知る
わたしが遍在していると信じさせてほしい
地下鉄の中で血の気の失せた肌をしながら吊り革をつかむ女の乳房には
青い蛇が幾匹も這っている 彼女の恋人は明かりを消して愛しあう
不在なのか消滅なのか増殖なのか見当もつかないことを
帰路で明日の朝食を買ううちに忘れつづける日々を生きる
自ら糸を吐く蚕は繭ごと熱湯に投げこまれてしまう
忘却と防御で静かにたたかおうとしても身を守ることができない
目が醒める前に息絶えた理由を繭で鏡がみえなかったからだといっても
繭のみえないひとはそれを隠喩と取るだろう
可視化された歴史か地層の言語を夢見ているが
物語がたやすいときそれはもうわたしの物語ではない
だれかの物語の中で語りを放棄して われわれは眠らなくてはならない
Coastland without the sea, Minami-Sanriku
海沿いだったはずの街は土砂の山に囲まれて、まったく海のみえない更地になっていた。土砂に囲まれた土地にぽつぽつと残された建物は時間から暴力的に切り離されているようにみえた。大型のトラックやブルドーザーの列を横目に、海のまったくみえない道を走るのは思った以上にこたえた。その感情に言葉をあてることがいまもできていない。
風化させないことの重要性はわかるが、少しずつ傷が癒えることも重要だ。しかしかつて海沿いだった街では時がとまってしまい、傷の癒し方がわからないままいまも深く途方に暮れているようにみえた。街は自らがどのくらいの傷を負っているのか、あの日からずっとはかりかねているのだ。これから何十年もかけてこの風景に言葉を与えようと試み、そしてその試みに敗北しつづけながら時計の針を少しでも進めようと努力することが、わたしたちのせめてもの償いであり弔いとなるのだろう。
明るい復讐についての覚え書き
「わたし(わたしたち)は何かを収奪されている、あるいは収奪されてしまった、だから権利として失われたものを取り返し、関係を是正しなければならない」という態度について、ずっと考えつづけてきた。生きづらさに直面する人たちはこの理路を一度はたどるのではないかと想像するし、自分自身もたどったけれど、ここ数年で言語化できるようになったのはもう少し違うことだ。
わたしは「誰か(仮想敵のようなもの)に権利を収奪された」と考えて怒りや悲しみによって自分を駆動させていくよりは「なぜかある日から(あるいはあらかじめ)自分の手元にないものがある」と捉えるほうが健康的で個人的には好みだなあといまは思っている。限られた自分の持ち物の中から愉しいことをみつけるか、ないならつくって愉しむか、愉しめないにしてもなんとか生きていくことのささやかさとしたたかさのことを思う。ほうれん草が手に入らないときにより安価な小松菜を手に入れてみたら、塩を入れて下ゆでする必要もないし美味しくてむしろラッキー、というようなことはざらにある。一緒に和える野菜や味付けを変えてみたらレパートリーが増えてラッキーというようなこともざらにある。ほうれん草がこれから先10年手に入らない、けれどどうしても食べたくて仕方ないとしたら、ほうれん草を闇市で仕入れてくるお隣さんを糾弾するよりは畑に植えてしまったほうが早いし、苗がありそうな地域の人とお酒を飲みにいったほうが早いかもしれない。いずれにしてもほうれん草にこだわるよりは美味しい食事が食べられればいいし、どうしてもほうれん草が欲しくて仕方がない場合には、なんとか機嫌のよい自分を保って調達しようと思う。
敵を設定するには現代は複雑で多様性に満ちている。わたしは文学を愛するのと同じような愛し方でその複雑さを愛していると思う。もしその中に対立せざるを得ないものたちを見出したとき、それらすべてに気を配り、留保をつけ、細かく分類して矛先を純化していったとしたら、それは錐のようなもので急所を突くスタイルになるだろう。その精神のありかたを否定したいわけではなく、あくまで好みの問題として、既存の構造をひっくり返すのに構造の矛盾を指摘するやり方よりは、新しいものをさっさと(せっせと)つくってしまう明るさのほうに惹かれる。なにかとんでもなくよいものやすばらしいものに圧倒されていたい。話の通じない相手に「話をきけ、こちらが正しい、言うことを聞け」というよりは「まあたぶんこっちのほうが愉しいけどね」と勝手に愉しんでいるほうがいい。愉しくない人たちは愉しい人たちの得体の知れなさが怖いと思うし、その恐怖の裏返しとして嫉妬されたり不条理なことを言われたりするかもしれないけれど、こちらの思考に強度があればつぶれないと思う。それでいいと思う。必要なのは愉しいことを共有する仲間と、考えつづける体力を持ちつづけることだと思う。強くしなやかでいつづけなくてはならない。
この一連の思考の端緒は復讐の方法を考えるところにあった。ずいぶん穏やかな岸辺へと流されてきたようだ。