Anticipation

f:id:pwimg:20141129162402j:plainカーブを描いてホームに入ってくる地下鉄をみながら、予期をすることについてぼんやりと考えていた。一時期、可能性を予期し、いろんなものの何手か先を読み、それに先回りをして升目を周到に塗りつぶすようにして生きていた。塗りつぶせない場合には、あらかじめ想像して、出来事とはじめて出会うことがないように心の準備をした。神経質すぎてすこし滑稽な感じもするけれど、恐怖の感覚がわたしにそうさせていた。
カーブを描いてホームに入ってくる地下鉄に自分が飛び込んでしまうのではないかという不安は思春期のころからあった。これは自殺願望の話ではない。線路に飛び込みたいと思ったことは一度もない気がする。これは、ほとんど拒絶不可能な引力のようなものにふらっと引き寄せられてしまうことへの恐怖の話であり、行動が制御できないかもしれない自分への漠然とした不信の感覚の話である。いまもときどき魅入られたように電車に吸い寄せられてしまう。自分をとても遠いものだと感じる。
ぼんやりと考えていたのは「電車に飛び込むかもしれないわたし」を制御しようとするとき、果たして、予期し、想像してあらかじめ遠ざけておくという方法は有効なのだろうかということだ。何年も考えてきたことだけれどいまだによくわからない。予期は繰り返されれば約束された呪いとなってわたしを縛り、ついには再現されるかもしれない。だからといってはじめて出会うことに後ろから刺されるつづけるのもあまりに不器用だ。
結局、いまだに線路に飛び込む自分の姿を詳しく想像したことがないので、いつもはじめて出会うように地下鉄のヘッドライトのまなざしに貫かれる。肩にかけた重たい鞄の持ち手をしっかりと握りながらつま先を浮かせ、かかとに重心をかけながら息を吸いこむ。わたしがどこかに行ってしまわないように。