Letters

ふだんあけることのない机の引き出しを整理してみようとあけると、高校時代に友人たちがくれたおびただしい数の手紙が出てきた。
封筒に入ったもの、中身がみえないように便箋自体が複雑な折り方で折りたたまれたもの、ただ二つ折りになっているもの、とても小さいメモ用紙に書かれたもの、ポストイットの走り書き。内容もまったく覚えていなかったのではじめて読むようにして読みふけってしまった。同じことを友人の誰かにされていたらと思うとたまらなく恥ずかしい気分になるけれど、送ってしまった手紙は取り返しがつかないので仕方がないなとも思う。授業の合間にメモのようにもらったものもあれば、絵の得意な友達がくれたイラストもあった。重たい内容の書かれたものもほとんど内容のないものもあって、そのどれもを、うまくいえないけれど連帯のような愛情に満ちているなと思った。
あのころ、たくさん手紙を書いていたことをすっかり忘れていたのだった。書くことはもっと気楽で、かつ日常的なことだった。書き言葉と話し言葉の区別はなく、自分の書いたことに注釈をつけたり自分の書いた冗談に自分で突っ込みを入れたりするような自由な文体があった。自分自身もそういうスタイルで書いていた記憶がある。植物の描かれたきれいな封筒に入っていた手紙は、とても優秀なのに人一倍努力するタイプの、当時わたしが天使のような人だなと思って尊敬していた友人からのものだった。いつも穏やかに笑っていた彼女の手紙の内容も彼女らしく心遣いにあふれていたけれど、いま読んでも少しおとなびすぎているような気がして胸が痛い。彼女が一度だけ、ほんの一言だけ、家庭の問題で弱音を吐いたときのことを覚えているから、そう感じてしまうのかもしれない。リストカットをしていた友人からの手紙には彼女自身の自己分析と生きづらさと、わたしへの密かな羨望のようなものが行間の狭すぎるC掛のルーズリーフにぎっしりと綴られていた。彼女は「手紙をもらうのは嬉しい、手紙をくれてありがとう」ということを文中で3回も書いていた。
みんな授業中に手紙を書いては、先生に気付かれないようにこっそりとまわしていた。気付かれても手紙を没収されて中身がみられることのないように、男の先生の時間にまわすことをあえて選んだ。男の先生たちは生徒の手紙をあけるまでのことはできないとみんな踏んでいて、少し挑発するようなところがあった。高校生はこういう面で過剰に女だと思うし、同時に女子校特有の底抜けの気楽さがあった。貸し借りをしたCDの話や映画の話。先生の悪口や授業のつまらない話。楽器の話。家庭の話や恋愛の話。
学校自体は嫌いで仕方がなくて、鬱屈した思いでピアノばかり弾いていた記憶が強かったけれど、わたしは決してひとりではなく、あのころも友人たちに愛されてたしかに存在していたのだなということを知った。存在のたしかさを証明してくれるものは前にあるものをつかみとる行動からもたらされるだけではなく、後ろからやってきて抱きしめてくれることもあるのだということを、険しい顔つきをした10年くらい前のわたしに教えてあげたい。書かれたものは時間を自由に移動してしまうということも。