ある人に対して真面目に向き合うときに、わたしたちは彼/彼女のこれまでの物語に向き合い、場合によっては深く寄り添ったり愛したりする。
わたしは喜怒哀楽には(怒りを除き)富んでいるほうだという自覚はあるけれど、特に感情的な人間でも熱血漢でもないので、語りは語りでしかないと思っているし、これまでの人生の物語のプロットにもさほど興味がない。もちろん語りの組み立て方には興味があるけれど、それはまた別の(上の)位相に吸収される類いのものだ。たとえば、因果関係をわかりやすくつないで説明された事柄については、その語りの強度と強度の由来だけに関心がある。因果関係の妥当性にはあまり関心がなく、なぜそれらを線でつないで説明するのかに興味がある。わたしはいつでもおびただしい細部とひとつひとつのエピソードが好きだった。細部とその質感とエピソードの集積こそがその人の代替不可能性を際立たせるのだと考えてきたので、いつでも、物語のなかの取るに足らない細部を愛した。そこから立体的で魅力的な相手の姿が立ち上がり、そこに自分自身が見た細部を追記したりもした。
いまでもそういうエピソードをひとつひとつ知ることが好きだ。でも、そういう細部の積み重ねがその人の代替不可能性になるとは思わなくなった。うまくいえないのだけれど、世の中に「必然」などというロマンチックなものはないという感覚だ。たとえば、恋人同士がどれほど恋して愛し合っていたとしても、この世界にはふたりしかいないと錯覚するほどに愛し合っていたとしても、所詮代替可能だということだ。どんなに本気でも代替可能だというのは残酷としか言いようがないけれどおそらくそうなのだ。ふたりの組み合わせなど任意で、どちらかというとそのほうが健全な世界だという気もする。ちなみに、これは物語にならないだろう。物語にならない、という物語にしかならないだろう。これがわたしたちの生の実際のところで、物語にすらならないことに耐えられないので、物語にしてしまうのだ。わたしだけの。わたしたちだけの。
わたしだけに特別なもの、わたしたちだけに特別な状況、わたしだけの能力、わたしたちだけの判断、そんなものは存在しない。わたしだけのつらさやわたしだけのかなしみなどもおそらく存在しない。わたしにだけ救える人などいないし、わたしのことだけしか愛せない人などいない。ただ、いまここで雨の音をききながらわたしは、これはわたしの雨だと思っている。わたしの雨がとてもしずかに降っている。