Rainy days in April

雨の夜がつづいた。ざわざわとした雨の気配がそのうちはっきりとした雨粒の音となって屋根を穿つ音をききながら、なぜ穿つ(うがつ)と穿く(はく)は同じ漢字をあてられているのだろうと考えた。雨がこつこつと地道に屋根を打ちつづけてできた穴に薄いストッキングを穿いた脚が忍びこむ柔らかい闇のことを考えた。
わたしは生活のことを考えていた。生活とは身体と等式で結べるもののようだという気がふとした。何度か思ったことがある気もしたがそのときどきでその意味は違い、そしていつでもそう思うまでに時間がかかった。シャワーの水が髪の毛束の流れにそって落ちていくときに、なにごとも自分の思い通りにはならないという当たり前のことを思った。それは言語ではなく映画のワンシーンを支配する色のようなものだった。解ける(ほどける)とはこういうことだろうと思った。泣きたいと思うことはないので、泣きたいと思うときに泣くことはない。かなしみは遠いので追いつくことができない。かなしみがかなしみであるのは追いつけないからではない。わたしの身体はわたしのものではない。わたしの身体はわたしにあまりに近すぎる。それがわたしにとってなんなのか、考えることにはもうつかれてしまった。音を立てない人物になって久しいので自分の声を忘れてしまいそうだ。ただ生活があり、ただ身体がある。わたしのものではない、しかしなぜか引き受けることになっているそれとともに、ぼんやりと雨の音をきいていた。かつては雨に強い親しみをおぼえた。いまでは身体が跳びこえてしまって、雨すら雨としてしかきけないのだ。