Dahlia

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花を形容する紋切り型の言葉や印象から自由になれるという点だけでも、枯れた花をみつめる意義があると思う。もちろんわたし自身は意義のためにみているわけではなくただ好きでみているだけだ。とても好きなので枯れた花の捨てどきもわからない。
「花が美しい」という言葉の意味がわからない、という21歳のころに走り書きしたメモを先日みつけた。美しさは花の側にあるのか、それとも美しいと感じるわたしの側にだけただ直観的にあるものなのかという問いの走り書きだ。読みながら当時の思考の流れのようなものを追い、そしていまはその問いが発せられた場所から遠いことを知った。いまは花を美しいと感じる主体の問題にはまったく関心がない。そしてこれは言語的な問題でもない。なぜそういえるかといえば、花が美しいことを知ったからだ。