Self (blue and red, composition practice)

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撮り手自身の姿が鏡やガラスに映った写真は世の中にあふれている。この手の写真は撮り手の自己イメージと自分自身をよりよくみせたいという自己愛が色濃く反映される気がして、はずかしくてうまく撮れなかった。写真を撮られることが苦手で、写真を撮られないために写真を撮りはじめたことを考えると、うまく撮れなかったのも当たり前だという気はする。
花や枝や光や影を自分で撮った写真については、ある程度どれがよい写真なのか自分でわかる。しかし自分が写った写真については、自分が好きな自分が写っているものをよい写真だとして選びがちだった。これは明らかに判断の鈍りであり誤りだが、若い女だったので仕方がない。
最近、自分をもののように撮れるかもしれない、とふと思うようになった。「わたし」ではなく「彼女」として自分自身を撮れるだろうと思ったのだ。自分が映りこんだ写真を静物画のように撮れないものだろうかとも思っていた。よく映る窓があったので、窓にレンズを向けファインダーをのぞいてみると、そこには車や本や螺旋階段とならんでぼんやりとした人の影が映りこんでいた。これが自分でも自分でなくてもいいと思った。構図をうまくとることだけを考えて身体を動かしながら、わたしはあっさりとシャッターを切り、あっさりと現像した。そしてその写真にあっさりとselfとタイトルをつけた。別の人間が写っていてもおそらくselfとつける。「わたし」を深刻に引き受ける必要はない、もっと気楽に、しかもあとから名指してしまえばいいことに気付いたのだった。